昨晩は小規模ながら、それなりの人が参加するオンラインイベントに登壇させてもらった。
わかった事は、登壇者が増えると周りの話していない人の事を考えて、あっ、この人話していないから順番待とうとか、自分が話し過ぎちゃいけないとか考え始めて上手く話せなくなる事。
この辺、オンラインの特徴なのかもしれないけれどね。
それでも、、、宣伝の為もあるしな。
まぁ呼ばれるのであれば、積極的に出て行こう。
オンライン座談会に参加。
哲学をベースに対話を楽しもうというもので、テーマも自分が意識しない限り考えない事だったから面白かったな。
とはいえ
生物の進化の流れという視点から考えると、何とも人間とは痴がましい事を考えるのだなとか考えるのはドーキンス読んでいるところだからかw
子ども達が大声で走り回り、大人が畑で採れた野菜を頬張り、酒を飲みかわす。
こっちのグループは仕事したり、子どもたちに勉強教えたり、ワークショップしたり、一緒に泥だらけになって遊んでいる光景も見える。
大人がこの場を使うには条件がある。
子供たちと何をするか?を考えて、実際にやってもらう。
仕事の手伝いでもいいし、キャッチボールでもいい。
そうした活動がいずれ、子供たち日常的に過ごす場になって、そこへ例えば海外旅行客やアーティストが集まったり。
そんな里山のイメージを具現化するべく、熊さんところへ。
ポンポンと話が進む訳でもないし、それこそ1歩進んだと思ったら2歩下がったり、何も変わらなかったりだけれど、少しずつビジョンが共有されたり新しい仲間が現れたり。
クーラーもなく扇風機と自然風だけで畳にゴロンと横になってあーでもないこーでもないと。
連休最終日、3度目のボルタンスキー展へ。
かつて存在していた人々の儚い記憶へと想いを巡らせながら、その大きな流れの中で自分を客観視する。
人には二回死があると言われる。
二度目は人々から忘れ去られた時だ。
でも、それは風や音、そしてモノへ遺るのだな。
日本では自然界のすべてのものに固有の霊が宿るアニミズムという考えは受け入れやすいかもしれないが、僕はそこまで考えた事がないな。
真っ白な雪景色の中で風に吹かれ時に強くなる風鈴の音と時折会場から聞こえてくる様々な問いかけにふと涙が溢れそうになる。
上を見上げるとゆらゆらと人々が揺れている。
あぁ、僕もそこへ行くのだな、いや、もうその世界にいるのか・・・。
最初は浅草のいつものお店で二人で飲み始めたのに、結局人が増えてしまういつものパターン。最近飲み方を変えたので、そこまで酷くないけれど、この酒の残り方だったら10時に復活か。
農作業好きな友達夫婦が迎えに来てくれるので、僕はリアシートでのんびり。
助かります。
コンビニで買い出しして、おにぎりを頬張りながらの道中も空いていて、集合30分前には熊さん宅に到着。
この日は子供も含めて30人位の集団だし、いつもやる田んぼのサイズであれば昼前には終わっちゃうね!の言葉に「いやぁどうかなぁ」と熊さん。
いやいや余裕っしょと思っていたら、なんと広い方を田植えするんだという。
うーむ
まぁ、草刈り、田起こしから収穫祭までと本格的に関わって、3年目ともなれば田んぼの形状もわかってるし、大した事ないさとウェーダーに着替えて田んぼへ向かう。
が、
この日の過酷さったら今までに経験した事が無い程。
照りつける太陽は上からも水面反射もあって下からも容赦ない上にウェーダー着となればまさにサウナの中で田植えしているようなもの。
しかも、田んぼを誰もが思う足首深さを1とすれば余裕で3は突き抜ける深さの熊さん田んぼ。
足が取られる泥の中をちょっと歩くだけで汗が吹き出す。
サングラスなんかもレンズに汗がたまるほど。
ボタボタ・・・
一人で横へ移動しながら20箇所位を植え付けていく。後ろを観たら最後、「えーーーー、まだこんなもの?」と容赦なく絶望感が押し寄せる。
もうね、「ワークショップ」なんて言葉使えない。
囚人です。
↑の写真は水分補給後、倒れ、消えゆく意識の中で「あぁキレイだな」と思いながら撮った。
水分休憩をはさみつつ、終了したのは15:30だったか?時計をみる余裕も、「お疲れ様〜」と他者に声がけする元気も何も残っていない。
まさに疲労困憊の中、農家の熊さんだけが忙しなく動いている姿には怒りを感じる程w
まぁ、こうして愚痴を並べるのは簡単な事なんだけれど、辛かった分、得られた事はとても大きい。
というのも、
その辛さの中でふと思った事は、昔はどうだったか?って。
農業は大変だったから家族総出だったし、それにも限界があるから近所がつながっていったり、辛いからこその収穫祭などのお祭りでの熱狂があったんだろうと思う。
便利で楽ちんな田植え体験も過去にやった事はあったけれど、泥んこになっただけでBBQの延長程度だった。
故に何も心に残っちゃいない。
引きずる足と心に熊さんが「もう一つ田んぼ残ってるんだけれど、やっちゃう?」の言葉に何を返したのか記憶はないけれど、うーん、確かにいつやろう。
シュルレアリスムったって、何がいいのか良く分からないし、何が語れるわけでもないのだけれど、福沢一郎の「どうしようも世界を笑いとばせ」が観たかったのですよ。
横浜美術館でのシュルレアリスム展でも思ったんだけれど、こうした社会風刺的な作品を観ていると戦時中、または戦後の荒廃した世の中に悲観的な思いで後ろ向きになるんじゃなく、それこそ「笑い飛ばしてやろうぜ!」という、ある意味パンク的というかロックを感じてしまう。
で、国立近代美術館の展示内容を知った時、正直、作家福沢一郎というよりも「笑い飛ばせ」の言葉がひっかかっていた。
初の近代美術館はいやぁ〜広いわ。
結構なボリュームで程よく点在している休憩所や椅子で2度ほど仮眠を取りながらの移動は心地よいんだけど、デートには向かないかもしれない。
amazonを含め最近観たドキュメンタリーや映画。
■「愛がなんだ」
今どきと言っていいのかどうか分からないけれど、表面的には若者の恋愛事情。でも、snsへの皮肉を込めつつ、やっぱり人のつながりって大切だっていうメッセージを感じる。
■グリーンカード
人種問題に切り込んだ映画。あまり心には残らなかったけれど、どんな時代であっても民主主義である以上良いも悪いも沢山あって、立憲的良心に立ち返ってみれば実はこの世の中はシンプルだよね〜って思ったり。
■ヨーゼフ・ボイスは挑発する
誰もが表現者になれるし、ならなくちゃいけないって。アートとなれば作品を連想する訳だけれど、発言だってアートになりうるじゃんね。オノ・ヨーコの作品とかさ。
■運び屋
クリントイーストウッドだから成立する映画ってこういうのだよねって思わずにいられない。麻薬の背景や先にあるものだとかそういう議論でなく寂しい老後生活の中で社会悪とされる麻薬によって承認欲求を叶え、家族の絆を取り戻す皮肉な内容になんともいえないモヤモヤ感。
■アイ・ウェイウェイはあやまらない
表現者たるものの生き様。表現の自由が許されないからこそ、表現の重さが顕著に浮かび上がってくる。
■ライオン
映像の美しさ、演者の瞳の美しさに圧倒されて。まぁ、感動とまではいかないけれど、良かったよね。