先日、森美術館で初めて見た現代美術。分かろうとすればするほど分からなくなるその世界観は、ずばり、はまる!
レストランで、お風呂場で、雑踏で、どこにでもartはある。
しかし、それが美術館に置かれた瞬間、何でもないものからartという位置づけになる現代美術。
問われるのは日常ある様々な事をいかに五感をもって感じられるかといったartist、またはcuratorの挑戦かもしれない。
あなたは何を感じましたか?
あなたは何を思いましたか?
正解の無い世界をどう感じるかでそれぞれの感性といった個性が問われる。
写実画や風景画といった誰もがわかるものは上手いなぁとか迫力があるなぁといったものだったけれど、現代美術ではそうならない。
今までの情報や知識や経験など自分が持つ様々なファイルから考えさせられる時間はとても楽しい。
もちろん、何も考えずただ、ぼーっと作品を眺めているだけでもいい。
百人百様の楽しみ方があるのが現代美術だと思う。
とか重苦しい事を書いているけれど、実際はそんな事一切考えず、東京都現代美術館で現代美術を落語で楽しむという企画があるというので全く現代美術の事など考えずに行ってきた。
変身や変容を通じて人の脆さや人の本質などをテーマにした展示があったけれど、やはり良く分からないものが多い。
この作品の意味は何だ?とゆっくりと館内を巡りながら1時間程見てから落語を聞きに地下講堂へ移動。
せっかくの内容だったけれど、イマイチ現代美術との接点が見えてこない事や、展示を見ていた方と落語を聞きにいらしていた方との人種差が大きい事など勿体ない事もあるけれど、この一歩が本当に大切なんだと思う。
そして、もう一つ現代美術に関して言及しておきたい事は「教育」との接点だ。
風景画、写実画。
小学生の頃に絵に求められていた基本軸はいかに「上手く」書けるかというテクニック重視論であって、表現ではなかった。
それが基本と言われればそれまでの話だけれども、そうした事で培われたテクニックの一方で、感じたり考える機会は失われてしまったと思う。
表現や感性に正解はないし、それが個性へとつながる。
算数や国語といった教科別の授業、そしてテストの点数や偏差値など客観的指標を求められる教育制度の中で失われていく事は何だろう。
そんな事を小魔女と話ながら思い出した一冊。
現代美術、そしてそこの先にある大切なものを気付かせてくれるかもしれない。
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