デモ活動の目的:社会の注目を集められれば一応の成果といえる。更に加えてそれら主張が周囲に認識され、それらが他人にも受け入れられたのであれば、目的を果たしたといえる。
先日、都内で原発に対するデモ活動があったとSNSで知り、Youtubeや他のネットで歌を歌い奇抜な衣装で原発反対を訴える若い方を見ていて強い嫌悪感を覚えた。
どうしてもお祭り騒ぎとしか思えない。
以前、米国だかの番組で地球環境問題デモ活動をする方々に、突っ込んだインタビューをしたところ、ほとんどの方が正しい知識もなく、一部の報道をそのまま受けてヤンヤヤンヤと騒いでいるだけだったと笑うに笑えない話があったからかもしれない。
多くの方々がデモを見て嫌悪感を抱くように、その効果はどんどん薄れていっている。だから参加者はより注意を促す為に、目立とうとして、奇抜な事をするようになる。
結果、デモ本来の目的さえも達成できず、何ら問題解決に寄与する事なく、多くの人から嫌悪感を持って見られただけの事についても、「問題提起する事が大切だ」「まず最初の一歩を踏み出す事だ」「何もしない位なら何でもいいから行動する事なんだ」と本来の目的から大きく逸れ、参加したというちょっとの達成感に満足している事になる。
そして、知る限りこのデモはTVメディアに取り上げられることはなかった。
主催者は確固たる意見があったのかもしれない。何故原発なのか?そして、その代替案は何なのかといった提言を持っていたのかもしれない・・・。
しかし、デモ本来の目的が分かっているなら、また、本当に何とかしたいと思っているのなら、やるタイミングもやる内容もきちんと戦略を立てたうえでの実行になったろうし、この運動をキッカケとした動きがあったはず。ところがそれさえもぼやけさせ、「何となく参加した」デモ参加者を巻き込み徒労と目的から逸れた歪んだ自己満足を提供してしまった。
・・・参加者の方は何故参加したのだろうと自問自答する事はあるだろうか?
以前、日韓W杯が終わった時、インタビューに若者が「これから何に燃えればいいのか分からない」と答えていたけれど、どこか似ている様に思う。
今後、デジタルネイティブと言われる子供たちはより多くの情報を得る事になる。
そして、情報を判断するのはフィルタリングなどのセキュリティチェクでなく、『自身のフィルタ』だ。そしてそのフィルタを作っていくことができるのはやはり教育でしかない。
Sのスケが言っていた「新聞に怒る」という言葉がふと頭によぎった。
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