▲街に出れば、当たり前の様に明かりがついている。家に帰ってパチンとやれば明かりがつく。
それが日本での”与えられた”社会インフラだ。
311以降、街が暗くなり、店が暗くなり、至るところに暗が増えた。
当たり前のように”与えられていた光”は少なくなっている。与えられている光は”自分がコントロールできる”以外の光の事を意味している。
この電気は無駄だと分かっていても、与えられている環境であれば、だれもがそれを利用する。
▲かつて、日本には長老という存在がいた。
長老に聞けばなんでも教えてくれた。理由は単純、長く生きている事、それが情報を多く持っている事と直結していたからだ。
情報取得ツールが無い時代は命が情報ツール。
しかも、その人の人生という質が絡んだ知見として小さいながらもそのコミュニティに引き継がれていった。
年配の方、そして先生が敬われたのはそうした背景があるからだと思う。
今では、情報技術インフラの発達により所謂、フラットの時代になり誰もが同じ情報を得、同じステージに立てるようになった。情報ツールが圧倒的に増え、そもそもネット普及の1990年以前に比べると一人が持つ情報量の水準が圧倒的に上がった事は事実。
しかし、その情報を発信する側も受ける側も、人生の経験など関係なく、”情報”だけが一人歩きしていき、誰でもそれを手に、そして目にする事ができるようになっている。
人の質は一切関係ない。
極端な例えをすれば、包丁を知らない子供にそれを扱わせるようなものだ。
それが全ての原因とは言わないが、昨今の年上を敬わない風潮、モンスターペアレンツの出現の一翼を担っていると思う。
大量の情報は便利だし、この大量の情報なくして日々の生活はあり得ない。だから、そこまでの情報量は必要なくても、ネットで検索すればどんどん情報が集まるなら、気付かずに情報を持ってしまう。
そして、その情報を”処理する側の責任”が問われるようになっている。
▲世界的な飢餓問題。
日本は7割の食糧を輸入し、その1/3を廃棄している国であり、日本を含む一部の国の大量、過剰消費が生んだ歪みが原因とされている。
一人ひとりの日々の生活が大きな力となり負を創り出している。
飲食店に行けば”どこでも”海老は食べられるし、それが安価で”提供”されているので”誰もが”、海老を食べられるようになった。
居酒屋で友達と海老なんちゃらを食べる事の先に飢餓問題があるだなんてつながり、意識しようったって、なかなかできるものではない。
▲当たり前に与えられる環境の中で問題意識を持ち、それを実行する事は困難だ。だから、多くの人がこの震災を語り、当たり前に与えられていたモノの無駄を語り合っている。
そして計画停電が施行されて以降、自分の家がその対象でなくても、極力無駄な電気は使わない様にしている人が増えている。
業をしている人は別として、不便か?と問われれば、日常生活に不便はない。
当たり前だった事が当たり前じゃなくなり、当たり前に与えられていたものが、個人の選択肢を問われるようになり、問題意識を行動に移す事が求められるようになった。
電気、情報、食糧、、、、
関係ないように見えるこれらは、物流、社会、技術など様々なインフラ整備により当たり前のように僕たちに提供されている。
インターネット黎明期に生まれたone to one marketing、そして個の時代、個性など個を強調した言葉。i modeもそうした事を意識したのかな・・・
しかし、それは”与える側”からのサービスや理論であって、受ける側が主になりそれらに言及したものでなかったように思う。
・・・・
「ほどほど」は大切だ。
その「ほどほど」のさじ加減は僕らの”質”に関わっている。
ではその質とはどう創られるのだろう。
まっ、今までもそんな事はずっと言われてきた事だし、改めていう事もないなw
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